妖怪大魔王・コバ法王の日記

NPO法人GRA代表、妖怪:小林が書く、オートバイや人生、社会や文化など、日頃思っている事です

評価と生きがい

   
人にとって、何らかの “評価” は “生きがい” に必要か同等のものなのだろう。
    
“評価” は、生まれた直後から 親の「かわいいねぇ~」で始まり、やがて親戚や近所の知り合いからに変わり、次は学校での評価へと基準が置き換えられる。
      
小、中、高の期間の間、学校での “評価” は 社会での “評価” に置き換えられる事も教え込まれる。
教え込まれたって、評価(成績)トップが居れば、必ずビリも居る。まるで、ビリには社会で生きていく資格が無いと教え込まれてきた。
    
無事に、ビリにもならず就職した者にも “評価” が付き纏う。 “評価” が高ければ報酬(給与)も高いから、その世界(会社)の評価を得るために、数十年、評価を得て守る毎日を過ごす事になる。
うまく循環できた者には、まるでゲーム感覚、それだけに集中すれば生活水準や社会的な名誉(評価)さえ高まるシステムだから、それだけに没頭できる。
 

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 でも、誰も深く考えていないけど、“評価” が得られない人生がある事や、誰でも “評価” されないシステムの毎日へ追いやられてしまうのだ。
人は簡単に、他者を良い(Good)か悪い(Bad)のレッテルを貼りつけたがり、必ず成績ビリの人を出してしまうシステムの欠点を補う必要性さえ考えようとしない。
   
だから、生まれた時から親からも 正当に評価されず、学校や会社でも同様に評価されずに生きている人の事を “見て見ぬフリ” をしてしまうんだ。
だから、会社を辞めて急に “評価” が得られなくなると狼狽えて、事故や病気で会社という評価システムからリタイアせざるを得なくなった人に憐れむフリが出来るのだろう。
   
評価が日本に限った事ではない。
実際、SNS 等で “いいね” とか “フォロワー数” などの “評価” を生きがいにしている人や、評価の高さを基に生計を立てている人が正解に多く存在している。
   
が、実際のハナシ、“評価” は 真の “生きがい” になり得るだろうか? と考えてしまう。
“ 評価 ” と言っても、生まれた時から他人が作った不公平なシステム、自身の努力等に一切関係無く、他者の先入観や社会的システムの中で生まれたものに過ぎない。
それを、貴重で短い人生において、不公平で不正さえ入る他者の “評価” システム の中に “生きがい” を見つける事自体、僕には 哀しい事に思えてしまう。
     
そういう “評価” システムの流れの中に身を置きつつ、流れからこぼれ落ちていく人達に対して、どいうい想いや考え、行動へと繋げていったのか? という事にこそ “評価” を与えられるべきだし、与えるのは他者ではなく、先ずは 自分自身で “評価” を与える事が、真の “生きがい” に繋がるのだろう、と思っている。